遺書のような備忘録

色々と忘れてしまわないように、個人的なことを書きます。

ヨルシカの雨とカプチーノはズルイ...こんなの名曲になるに決まってんじゃん...

みなさん。ヨルシカって知ってますか?

 

 youtubeを頻繁に見てる人なら関連動画とか広告とかおすすめで一回は見たことあるだろうし、少し前までボカロを聴いてた人ならn-bunaって名前を見ればわかると思うんですけど、いわゆるネット界隈のサブカルなら誰でも知ってる有名人だし、イコールで最近の中高生や大学生にも人気だし(少なくとも僕の周りでは)、片田舎のライブハウスでコピーバンド組んでるような人たち(少なくとも僕の周りでは)はヨルシカのただ君に晴れを一回はコピーしてるはず。そのくらい有名人。

 かくいう僕も夏になれば「ただ君に晴れ」と「七月、影法師、藍色、ロッカー」を聴くし、秋は「夜明けと蛍」と「メリュー」、冬は「ヒッチコック」と「藍二乗」、春は負け犬にアンコールはいらない」を聴くくらい位は好きです。ていうかむっちゃ好き。

youtu.be

 2019年8月1日に雨とカプチーノっていう新曲が公開されたんですが、とりあえずここ最近のボカロ界隈とか、その派生の曲の中でダントツで好きになりました。

 もうね、ほんとにずるい。こんなんハマるに決まってんじゃん。以下箇条書きでずるいと思ったこと書いていきます。

 

1、映像ずるい。

 「だから僕は音楽をやめた」でも担当してた。Hurray!が担当してます。こういう大人数が集まった大規模なものじゃなくても素晴らしいクリエイターが数人集まるだけで、こんなに素敵な映像が作れるってことを体現してくれている気がする。

 最近では20歳にも満たない人たちがAdobeのAEとかを使ってエモいを2倍にしてさらに3乗したような映像を作っているし、こういう”これから”の人たちが少しでも束になったら、1+1が2以上の何かになるんじゃないかと信じてる。

 これは京アニの一件があったからこそ思ってしまうことなのかもしれない。次のアニメ業界を担うクリエイターはゴマンといるけど、その一人一人がかけがいのない人間国宝と同等のそのものであるし、もういい加減ジブリ崇拝はやめたほうがいいのかもしれないとさえ思うし…。固定概念や宗教的な価値観ではなくて自分が良いと思えるものを正当に評価すべきだと思う。そのうちそういう時代は来るんだろうけど、今一度、少しでもそこに気がついて、よりクリエイターのために動くことができればとさえ思ってしまう。

 話が少しだけそれたけど、映像が歌詞とか音にマッチしていることが大前提として、この曲を引き立てているのはこの映像が8割くらいしめてるんじゃないかと思うレベルで優秀。いや、言いすぎた。5割くらいにしとこう。

 

 

2、サビの完成度とギターの掛け合いずるい。

 ヨルシカおよびn-bunaの楽曲においてサビとサビの完成度(高揚感とか伝わる言葉の数とか)はずべ抜けているとは思っていたけど、今回の「雨とカプチーノ」はAメロとかでのギターの掛け合いが巧妙。片方のギターが片方のギターを追いかけているようなフレーズを弾いていて、よくある男女の関係性を表していそうで、でもただそれだけじゃないような気がする。IQ30程度の頭で考えられたことはこの程度です、許して。。。

 そんなIQ30でもわかるサビの高揚感、というか、サビに入った瞬間が名曲だなと思った瞬間でした。イントロやAメロが多少に思えてもこれがサビに入った瞬間に弾けるというか、本当にサビに重点を置いているというか。しかも1番のサビと2番のサビの間隔の短さでさらに追い討ちをかけられるし。。。もう、マヂ無理。。。

 

3、ワードチョイスずるい。

 ワードチョイスって言葉。いざ文字に起こしてみるとダサいですね。でもIQしんでるのでこれでいいです。もうむり。なにもかんがえられない。

 韻を踏めるとそのメロディはよく聞こえるという風説がありますが、「言葉はカプチーノ」と「窓辺に置いてきて」のところの語呂よくないですか?最&強じゃありませんか?永遠に聴いていられる。他の部分でもそうだけど詩的すぎんよ。。。n-bunaまだハタチきてないって本当?ガセであれ。

 

4、ループしてみ。ずるいよ。

 youtubeで聴いてるみなさんならループ再生できると思うんですけど、ループした時の舞い戻ってきた感がひっかかるんですよね。っていうのも、イントロからだんだんアゲアゲにして最後にアゲアゲのまま落とすっていうのがやりやすいし乗りやすいやり方の筈なんですけど、この曲って最後まで聞いたあと最初に戻るとあら不思議。逆にラストサビに向かうんじゃないかっていう高揚感があって無限ループできるんですよね。これはCメロも含めてそういう表現を可能にしてると思うけど、本当に巧妙。脱帽。

 

5、ずるい。

 とにかくずるい。こんなん何か一つでもかけてたらここまでいいと思えなかったかも知れないし、それでも揃ってしまった事がずるい。いいとこ取りってわけではないけど、ジブリ然り、新海誠然り、米津玄師然り、、、その類のバズりまくる前の風潮みたいなものをひしひしと感じる。感じたら期待せずにはいられないし、そういう才能とか、人を引き寄せる何かをずるいど思ってしまう。

 一種のエゴと若手潰しの過度な期待に過ぎないのかも知れないけど、期待させてください。お願いします。

 たった一人の才能をひとりで終わらせないような考え方とか、期待せざるを得ない。

 ただでさえいいとおもってしまうもものを過度に期待させてしまう才能。ずるい。

 ずるいっていうのはいいわけだけど。ずるい。

 応援してます。 

 

 

「天気の子」感想。あちら側の視点で観る自分に気づいて泣いた話。

 

 タイトル通りです。それ以上もそれ以下もないです。泣きました。大人ってなんなんですかね。思ったこと書きなぐります。ネタバレしかないです。気をつけて。

 

 こちら側とあちら側。つまるところ大人と子供の違いって、時に年齢だったり自立して生活できているかだったり、人によって定義が違うと思うんですよ。だからこそ曖昧で、自分と他人で差異が出たりする。僕は24歳なんですが、体ばかりが大きくなって中身は子供なんじゃないかと思ってますし、実際子供みたいに一般論をいう大人たちにヘイトを向けて反骨心だけは忘れないような大人になりたいんですよね。

 主人公の帆高や陽菜は高校生くらいではっきり言って子供なんです。年齢的には。だけど帆高は島から一人家出して東京で生計を立てれるくらいにはなんとかやっている。周りの人(須賀さんと夏美さん)のサポートがあってこそだけど。陽奈は母親が亡くなって弟の凪と二人の生活でアルバイトのお金だけでなんとか生活している。

 これを考えると結構自立できていると思うんです。細かい話は置いておいて、ただ生活するだけなら案外やっていけてそう。しかも、帆高と陽菜で力を合わせて晴れ女の力でビジネスとしても儲けがある状態。この段階では、年齢的には子供かもしれないけどある程度の自立力はありそうだから、子供としてみていいのか大人としてみていいのか分からなくなる。

 

 けど物語の中盤手前で警察が介入しだしてから一変、帆高は須賀さんから島に帰るように言われて、陽菜は弟と児童施設に連れて行かれそうになる。そこで帆高、陽菜、弟の凪は一緒に逃げるって決断をしたんですよ。それみて僕ドン引きです。マジで頭沸いてるんじゃないかと。少しビジネスで成功したからって3人でやっていけるわけがない。自惚れも大概にしとけと。そもそも須賀さんが言ってた通り、帆高が島に戻れば万事解決なのに。やっぱり子供だなぁと。

 

 結果、帆高は逮捕されて陽菜は人柱となって消えちゃって凪は児童養護施設へ・・・。もう最悪。言わんこっちゃない結果だし、帆高も帆高で陽菜を探しにいくとか言って警察官に精神異常を疑われる始末。結構この展開しんどいんですよね。警察官も帆高の虚言聞いた時に何回もめんどくせぇって言ってたけど、本当それだよなぁと思って。やっぱり子供だなぁと。

 

 さらに最悪の展開は進んで、帆高脱走。凪脱走。夏美は脱走の手伝いをして警察に捕まる始末。帆高は2度目の拳銃発砲で取り返しがつかなくなるし、帆高を説得しようとしてた須賀さんも警官殴って公務執行妨害確定。凪も警官に膝下タックル食らわせて公務執行妨害確定。フルコンボが決まってもう・・・って感じなんすよね。でもこのあたりで気づいたんですよ。

 

 帆高は夢を一心不乱に追っている子供の象徴で、凪はその唯一の理解者かつ仲間の象徴。須賀さんは夢が叶わなくなった過去を持った大人の象徴で、夏美さんはその間にいる人の象徴で、警察官は世の中に存在する一般的な大人や理不尽の象徴。

 そう思った時に自分はなんで警官とか大人の立場で見てるんだろうと。なんで素直に帆高を応援できないんだろう。自分もかつて夢を見て一心にやってたけど周りにいたクソみたいな大人はやれ頭がオカシイだの、現実が見えてないだの言ってくるし誰も信用できなかったことがあったなと。何か頑張っている人がいた時に応援する人と無関心な人と弾圧をかけてやる気を削いでくる人といろんな人がいたのに、そこで一体自分は何を思って何を学んでたんだと。自分の頑張りや努力を嘲笑って、一般的な常識で不安を煽って、屈辱的な思いや怒りを感じて絶対こうはなるかと思ったかつてのくそみたいな大人たちと全くおんなじことをやってる自分がいたんですよ。自分はいつの間にか夢を見せる側でも見る側でもなく、それをあざ笑うくそみたいな大人の仲間入りしてた。

 

 帆高の行動は目に余るしちょっとやりすぎな感じがするけど、目的はたったひとつ。「陽菜を助けに行きたい」。それだけを一貫してるんですよね。それがゆえに周りが見えない。一心不乱。帆高だけが陽菜をなんとかできる、目的を達成できる可能性を持ってて本人もそれをひたすらに実行しようとしてる。けど周りからは理解されないし精神異常と思われる始末。自分を止めようとする人は(たとえ善意であったとしても)みんな敵にしか思えない。本当に救いがないんですね。ただ一人の子供の行動を、子供の戯言として、大人の暴力で押さえつける。そうやって理不尽に塗り潰されて平らにされる。

 けど帆高は諦めなかった。本当に一心不乱に何かをやり遂げようとしていたから凪が行動に移して脱走した。その凪の諦めない気持ちも凪の友達を動かした。夏美さんだって就活中で自分が困難な時なのに警察に捕まろうとも帆高の目的達成のために尽力した。須賀さんは帆高を説得してたはずなのに、帆高が警察に殴られていよいよ逮捕されそうになった瞬間、過去の自分と今の帆高が重なって警察を殴った。過去の須賀さんは世の理不尽とかに潰されてしまった、救われなかった帆高なんですよ。そして帆高は陽奈を助けることができる。もちろんみんな代償は支払わなければならなかったわけですけど、僕から見たそれらのつながりは救いに満ちてた。

 なりふり構わずに諦めなければ助けてくれる人がいたり、時に須賀さんみたいに避けることのできない理不尽に潰されても、その人が今度は誰かを助ける。そうやって世界が回っていけば、そんな世界なら救われる人もいるんじゃないかと思うんです。実際僕は自分が大人の目線でしか見れなかったことに憤りとか悲しさを感じましたけど、それでも今からでも須賀さん見たく誰かを助けることができるようになれれば救われるなと。そうやって世界が回っていけばいいなと。物語終盤で帆高が須賀さんに謝った時の須賀さんの言葉「もともと世界は狂ってるんだから。」この言葉の重さは須賀さんだからこそ言える言葉だし、こう言ったことを言えるくらいの経験を積まなければなと。そしてあちら側ではなくこちら側に立てるチャンスはまだあるのだと。

 本当にこのタイミングで見れてよかった。新海誠監督、本当にありがとうございます。

 

 最後に、RADWIMPSの「愛にできることはまだあるか」の一部を抜粋して。

 

   それでもあの日の 君が今もまだ

   僕の全正義の ど真ん中にいる

   世界が背中を 向けてもまだなお

   立ち向かう君が 今もここにいる

 

四半世紀+(-1)の人生

梅雨

 

関東に上京して3度目の梅雨の時期になった。実際梅雨って感覚はあんまりないのだけれども、「関東では梅雨入り」というニュースが3日前くらいに流れていた気がする。

 

3度目とは言っても、1年目は22歳にもなって人生で初めての一人暮らしで、世知辛さや都会特有の焦燥感とかに押しつぶされまいとしてたらいつの間にか梅雨を通り越して年末になって、2回目の梅雨が来て、年末になって、そして3回目の梅雨が来た。うるさいほど鳴いていたはずの蛙も一匹残らず姿を消して、次の春を夢を見ながら冬眠についたらしい。それも2回も。季節は僕だけを置いて過ぎ去ってしまったらしいですね。

 

だから上京してきて実質初めての梅雨ってことでいいような気がしてきたんですが、自分が言いたいのはそんなことじゃなくて、タイトル通り24歳になってしまったというわけです。もう1年経てば25歳。四半世紀になります。

 

仕事とバンドとエトセトラ、せわしなく過ごしてきたし色んなことがあったはずなのに人間はそう言ったことを忘れていくんですよね。いいことも悪いことも。僕なんてこの前まで18歳で学校の図書館でTHE CLASHのCD借りていきってた気がするのにもう24です。浦島太郎現象よろしく自分の生きる時間が光の速さに近づいたのか、自分以外が光の速さに近付いて僕を置いて行っただけなのか。とにかくここ10年くらいの記憶が薄すぎる。

 

そう言ったことを考えれば考えるほどに生きた証とか、身の回りでこんなことがあって当時の自分がどう思ったか備忘録として残すべきだと思ったんですよね。

 

やんわりと書いていきます。

 

porter robinsonFlicker を聴きながら